1990 河出書房新社
島津氏は、関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗北したが、領地を九州南部に留めた。薩摩藩は、北は九州山地で隔たれ、南と西は広い外洋に囲まれて外部と隔絶し、閉鎖的な独立国を形成していた。
薩摩藩では、藩士を鹿児島に集住させず、各郷村に分散居住させる外城(郷士)制度をとっていた。外敵に備えるためか、徳川に復讐するためか、青年に対する教育と武術訓練が重視されていた。こうした風土のなかで、いわゆる薩摩隼人と呼ばれるような薩摩武士が純粋培養された。
西郷隆盛と大久保利道は、同じ町内で生まれ育ち、歳も同じくらいで、藩士最下層の身分であった。
幕末、薩摩藩は島津斉彬のもとで、西洋式の技術を取り入れ、積極的に洋式兵術を採用した。
斉彬に認められたのが、西郷であり、大久保は斉彬亡き後、実権を握った久光に近づいて、その信任を取り付けた。
西郷と大久保は、薩摩藩を討幕の大事業へと導き、ついに目的を達成し、新政府の参与に就任した。
しかし、その後、軍事指導者として大活躍した西郷は、帰郷して引退してしまう。
いっぽう、大久保は、岩倉具視と協力して、誕生したばかりの新政府を作り上げるのに奔走した。大久保自身、この新政府は、いつまでもつのか不安にさいなまれながら、必死に維持していたが、潜在的に新政府をおびやかす可能性のある諸藩も、衰亡の坂を転落していた。以前から慢性的に窮乏していた諸藩の財政は、戦乱の過程で、ますます窮迫し、破綻に瀕していた。
このような背景があって、明治二年、「藩籍奉還」は、比較的スムーズに行われた。
続いて、政府は、帰郷していた西郷に上京を要請し、西郷の率いる兵力をバックにして、明治四年、「廃藩置県」を断行した。
いわゆる「明治六年政変」では、俗説では「征韓論」に敗れた西郷が下野したことになっているが、本書によれば、西郷は「征韓論」を唱えていない。
明治七年、西郷は、辞職して鹿児島に帰り、その後を追って鹿児島に帰る軍人や役人が多く、これらの人々を指導・教育するために「私学校」が設立された。
おりしも、政府は、士族の「秩禄処分」を進めていたが、鹿児島県では、思うように進まなかった。
明治九年、「廃刀令」は士族に精神的な打撃を与えたが、秩禄の公債化決定は、経済面で打撃を与えるものであった。熊本、秋月、萩などで士族の反乱が起こり、鹿児島士族も動揺した。
明治十年一月、政府は、鹿児島にあった陸海軍の弾薬兵器を他に移そうとした。
これが私学校徒を刺激し、西郷が鹿児島を離れているときに、弾薬庫を襲って決起した。もはや、西郷もこれを抑えることはできず、西郷軍は北上した。不平士族の不満が爆発したのが原因で、はっきりした挙兵目的があったわけではない。
西郷が率いる軍隊が敗れるわけがないという思い込みもあったのであろう。
その後、熊本城の攻撃、田原坂の激闘などを経て、明治十年九月、西郷は城山で最期をとげた。
この「西南戦争」では、薩軍の総兵力は、約三万三千、政府軍は約六万であった。また、戦死者は、ともに約七千という。
島津氏が、豊臣秀吉の刀狩令にも徹底的に従わず、人口の三分の一にも及ぶ武士勢力を温存してきたつけが最後に回ってきたのである。
翌年五月、大久保利道も西郷を慕う士族によって暗殺された。