2010年9月22日水曜日

洗足池

勝海舟夫妻の墓


西郷隆盛留魂祠


2010年9月21日火曜日

芳即正・毛利俊彦 西郷隆盛と大久保利道

1990 河出書房新社

島津氏は、関ヶ原の戦いで西軍に味方して敗北したが、領地を九州南部に留めた。薩摩藩は、北は九州山地で隔たれ、南と西は広い外洋に囲まれて外部と隔絶し、閉鎖的な独立国を形成していた。
薩摩藩では、藩士を鹿児島に集住させず、各郷村に分散居住させる外城(郷士)制度をとっていた。外敵に備えるためか、徳川に復讐するためか、青年に対する教育と武術訓練が重視されていた。こうした風土のなかで、いわゆる薩摩隼人と呼ばれるような薩摩武士が純粋培養された。

西郷隆盛と大久保利道は、同じ町内で生まれ育ち、歳も同じくらいで、藩士最下層の身分であった。
幕末、薩摩藩は島津斉彬のもとで、西洋式の技術を取り入れ、積極的に洋式兵術を採用した。
斉彬に認められたのが、西郷であり、大久保は斉彬亡き後、実権を握った久光に近づいて、その信任を取り付けた。

西郷と大久保は、薩摩藩を討幕の大事業へと導き、ついに目的を達成し、新政府の参与に就任した。
しかし、その後、軍事指導者として大活躍した西郷は、帰郷して引退してしまう。
いっぽう、大久保は、岩倉具視と協力して、誕生したばかりの新政府を作り上げるのに奔走した。大久保自身、この新政府は、いつまでもつのか不安にさいなまれながら、必死に維持していたが、潜在的に新政府をおびやかす可能性のある諸藩も、衰亡の坂を転落していた。以前から慢性的に窮乏していた諸藩の財政は、戦乱の過程で、ますます窮迫し、破綻に瀕していた。
このような背景があって、明治二年、「藩籍奉還」は、比較的スムーズに行われた。
続いて、政府は、帰郷していた西郷に上京を要請し、西郷の率いる兵力をバックにして、明治四年、「廃藩置県」を断行した。

いわゆる「明治六年政変」では、俗説では「征韓論」に敗れた西郷が下野したことになっているが、本書によれば、西郷は「征韓論」を唱えていない。
明治七年、西郷は、辞職して鹿児島に帰り、その後を追って鹿児島に帰る軍人や役人が多く、これらの人々を指導・教育するために「私学校」が設立された。
おりしも、政府は、士族の「秩禄処分」を進めていたが、鹿児島県では、思うように進まなかった。
明治九年、「廃刀令」は士族に精神的な打撃を与えたが、秩禄の公債化決定は、経済面で打撃を与えるものであった。熊本、秋月、萩などで士族の反乱が起こり、鹿児島士族も動揺した。

明治十年一月、政府は、鹿児島にあった陸海軍の弾薬兵器を他に移そうとした。
これが私学校徒を刺激し、西郷が鹿児島を離れているときに、弾薬庫を襲って決起した。もはや、西郷もこれを抑えることはできず、西郷軍は北上した。不平士族の不満が爆発したのが原因で、はっきりした挙兵目的があったわけではない。
西郷が率いる軍隊が敗れるわけがないという思い込みもあったのであろう。

その後、熊本城の攻撃、田原坂の激闘などを経て、明治十年九月、西郷は城山で最期をとげた。
この「西南戦争」では、薩軍の総兵力は、約三万三千、政府軍は約六万であった。また、戦死者は、ともに約七千という。
島津氏が、豊臣秀吉の刀狩令にも徹底的に従わず、人口の三分の一にも及ぶ武士勢力を温存してきたつけが最後に回ってきたのである。
翌年五月、大久保利道も西郷を慕う士族によって暗殺された。

2010年9月19日日曜日

加来耕三 徳川慶喜とその時代

1997 株式会社立風書房

1958年生まれ

幕末の歴史年表を見ると不思議に思うことがある。
1867年、幕府は「大政奉還」しているのに、なぜか、翌年、鳥羽伏見の戦いで「賊軍」とされている。
そこで、この間の事情を見ると、1867年、密かに成立した薩長連合は、討幕の計画を立てていた。
これに気付いた慶喜は、先手を打って、この年の10月、「大政奉還」して政権を朝廷に返上した。慶喜の本音は、何の実力もない朝廷は、どうせ幕府にいままでどおりまかせるよりないというものであった。そうなれば、朝廷の威光も借りて落ち目になった幕政を立て直すことができる。
その時、京都にいた慶喜は、幕府軍を率いて、大阪城に退き、京都を牽制することにした。
いっぽう、あくまで武力による討幕を目指していた薩長連合は、事態の推移に焦り、西郷隆盛の企みによって、江戸の薩摩浪士に乱暴を働かせて、幕府を背後から挑発した。
翌年の正月早々、幕府軍は、薩摩を討伐するため、京都に向かって兵を進めた。
鳥羽・伏見の戦いでは、戦いの準備をしていた薩摩の軍勢に準備不足の幕府軍は敗退した。
この戦いは、官軍側が、軍事的に圧倒的優位であったというわけではなく、あらかじめ戦うつもりであったのと、密かに作成しておいた「錦の御旗」を振りかざしたことが、勝利につながった。
それでも、なお、慶喜が大阪城に踏みとどまって抗戦すれば、官軍が必ず勝つとはかぎらなかった。
事実は、慶喜は、大阪城を脱出して、軍艦で江戸に逃げ帰り、幕府軍は崩壊した。
このときの慶喜の本心は、どうだったのだろうか。
実戦に怖じ気づいてしまったのか、それとも幼少から身についた水戸学(注)が影響して、徳川家を「朝敵」にすることに耐えられなくなったのだろうか。
こうして、岩倉具視、西郷隆盛、大久保利道らによる討幕計画は成功して、新政府が成立し、大部分の藩はこれに従った。
慶喜は、これ以降、明治の世の中で表舞台に出ることはなかった。
討幕に成功した側も、日本をどのような国にしようという明確なビジョンがあったわけではなく、しばらく混乱の時代が続くことになる。

(注)水戸学:藩主徳川光圀の「大日本史」編纂に由来する。尊王攘夷運動に大きな影響を与えた。

2010年9月12日日曜日

半藤一利 幕末史

2008 株式会社新潮社

1930年生まれ

1853年、アメリカからペリーの艦隊が来航し、日本は開国した。
それにもかかわらず、「尊皇攘夷」の世論は、ますます強くなっていた。開国を強行した井伊大老は、水戸の浪士によって暗殺された。攘夷派が圧倒的多数を占めるなかで、もう時代は開国だと思っている人も、攘夷派のふりをした。そうしないと、暗殺されかねないからである。攘夷派と開国派にはっきりと分かれていたのではなく、入り乱れて、わかりにくくなっていた。
水戸の攘夷派が立ち上げた「天狗党」は、慶喜を応援しようと決起し京都をめざしたが、見殺しにされ、行き場を失って、3百人以上が敦賀で斬られた。

1866年、和宮の夫である将軍家茂が死去し、慶喜が将軍になった。続いて、和宮の兄である孝明天皇が突然死去した。孝明天皇の死は、暗殺されたのではないかという疑惑がつきまとっている。孝明天皇は、外国人が大嫌いで、かつ幕府を倒そうなどという考えは少しも持っていなかった。

1867年、岩倉具視らの公家と薩摩・長州連合の陰謀によって「討幕の密勅」が発せられた。おなじ頃、慶喜は、山内容堂の勧めにより、大政奉還の建白書を朝廷に提出した。

1868年、官軍(薩摩・長州)と旧幕府軍とが、鳥羽伏見で衝突した。
この戦いで、大阪城にいた徳川慶喜は、薩長軍が「錦の御旗」を掲げ、旧幕府軍が「賊軍」とされたのを知ると、戦う意欲を失い、江戸に逃げ帰ってしまった。
慶喜は、勝海舟に後のことはまかせ、上野寛永寺の大慈院に蟄居して恭順の意を表した。
いっぽう、官軍は、江戸に向かって進軍していた。
その間、西郷隆盛と勝海舟の会談によって、江戸城は無血開城された。
戊辰戦争を戦った会津藩、長岡藩などは、「賊軍」にされるとも思わず、徳川に対する忠誠心から薩長と戦っていると思っていた。

以上のように、幕末と明治初期は、大混乱の時代で、殺し合いが普通の時代であった。いわゆる「勤皇の志士」も、志は高かったにしても、報われた者は、ほどんどいない。
「明治の元勲」と呼ばれる人たちも、暗殺されたり、戦死したりして、最後に残ったのは伊藤博文と山県有朋だけである。

東京の旧市民は、薩長嫌いで、東京生まれの夏目漱石や永井荷風は、その作品のなかで、「維新」という言葉は使わず、徳川家の「瓦解」と表現している。
著者も、そういう心情に共感する一人である。

2010年9月4日土曜日

副島隆彦 時代を見通す力

歴史に学ぶ知恵

2008 PHP研究所

1953年生まれ

歴史的に見ると、日本は中国文化圈の国である。
それは、日本で使われている文字が漢字であることからも明らかである。
昔の日本の知識人にとっては、ひたすら漢文を読むことが学問であった。
ここで、日本人にとっては、漢文を学べば学ぶほど、ストレスがたまることがある。
それは、漢文で書かれた書籍の根底に流れている中華思想である。漢民族こそが、世界の中心であり、周辺の民族は文化的に遅れた野蛮人であり、日本は東夷と呼ばれていた。
このような中国思想を学んできた日本人は、常に屈折した感情を抱かざるを得なかった。そのため、しばしば、中国に対する反感から、中国なんか世界の中心ではない、日本こそが世界の中心だと言う人が出てきた。中華思想の枠組みは、そのままにして、中国を日本に置き換えたようなものである。

江戸時代に、幕府は、仏教を保護し、朱子学を公式の学問とした。
それらに対する反発から、国学がさかんになり、幕末には平田篤胤や頼山陽の本がベストセラーになった。
尊皇攘夷が、そのころの一般的な思想になって、民族的愛国心が高揚した。
そのようななか、アメリカのペリーが、7隻の軍艦を率いて、1853年、品川沖にまで接近した。幕府は、これを追い返す力はなく、開国せざるをえなかった。
その後、攘夷つまり外国排斥は、当時の一般的な世論であったにもかかわらず、薩摩や長州も、イギリス艦隊の砲撃を受け、力の差は、あまりにも大きく、開国せざるを得ないことを思い知らされた。
明治維新は、イギリスの援助を得た薩摩や長州が、幕府を軍事的に圧倒したために起こったものである。このころ、アメリカは南北戦争のただ中にあり、日本をかまっている余裕はなかった。

尊皇攘夷的な考え方それ自身は、明治以降もますます強くなり、ついには日中戦争の泥沼にまで導いた。
日本は、中国との戦争で、目いっぱいで、もはや戦争を拡大することは難しいにもかかわらず、なぜ、アメリカとまで戦争したのだろうか。
アメリカとの戦争は、石油を供給しないというアメリカの挑発に乗って、海軍主導で始められた。陸軍と海軍はバラバラで、陸軍が中国で戦っているのに海軍はなにをしているのかという雰囲気があったのだろうか。というより、アメリカと戦争すれば負けるのがわかっているのに、陸軍も海軍も、それを自分から言い出すことができなかったため、戦争せざるをえなくなってしまったらしい。

アメリカと戦争して、予想されたように、徹底的に打ち負かされ、敗戦後、日本は、すべてにわたってアメリカの「属国」になった。

以上、本書から得た印象をまとめたものである。

戦後の日本がアメリカの「属国」であるという説はよく聞く。
日本は、軍事的にはアメリカに依存して、そのために経済的には繁栄した。
依存ばかりしていると、反抗もしたくなり、こんどは、中国と仲良くしようとする動きもある。
しかし、日本と中国とは、昔から仲がいいというわけではなく、ついこの間まで、日本が中国を侵略していたのである。

2010年9月1日水曜日

遊佐道子著 蓑輪顕量訳  日本の宗教

2007 株式会社春秋社

今日、日本人の3人に2人は、個人的な宗教的信仰は持っていないと答えるであろう。その理由として、本書では次の二つをあげている。
一つは、宗教的営みと文化的な営みが一体になっており、日本人の生活の中に深く染み込んでいるので、生活文化の宗教的起源が、はっきりと認識されることがなくなっている。たとえば、年中行事となっている正月休み、お盆休みなども、もとは宗教的意味を持つものであった。江戸時代には、大山詣で、富士講、お伊勢参りなど、宗教的活動は、同時に庶民の行楽でもあった。
二つ目には、幕府は、キリスト教を禁じるため、すべての日本人に仏教寺院に所属するよう義務づけた。この「檀家制度」は、すべての日本人を仏教寺院が管理するシステムであった。そのため、多くの日本人にとって、仏教徒としての自覚は薄れている。仏教は、宗教的な癒しや救いを求めるというよりは、葬式や墓参りのときにだけ意識されている。

仏教と神道とは、その初期のころから相性が良く、両者は、あざなえる縄のごとく日本の歴史・文化をかたちづくってきた。
江戸時代には、仏教に対する勢力として儒学が盛んになり、将軍家の庇護を得て、その地位を確実にした。いっぽう、儒教や仏教にたいする反感も強くなり、賀茂真淵、本居宣長、平田篤胤などによって確立された国学は、日本を天皇を中心とする「神国」であると主張した。この「復古神道」は、のちに尊皇攘夷運動を先導する思想となり、ゆくゆくは徳川幕府を倒すことになった。それは、明治時代およびそれ以降には、神道を国家的な信仰にする基盤をつくり、ついには、戦前の軍国主義を主導する思想となった。
戦後は、国家神道は排除され、信教の自由が保証された。新興宗教が勃興し、新しい都市の住民を中心に、非常に多くの信者を獲得した。宗教と政治とは切り離されたが、靖国神社問題、創価学会と公明党など、なお宗教と政治との関わりを見ることができる。今も人々の記憶に鮮明に残っているオウム真理教による衝撃的な事件は、明治維新から敗戦を通じて、日本の文化的・宗教的な伝統が破壊されたことに、その遠因を求める人もいる。

日常、人々は、宗教のことをあまり意識することはない。それでも、宗教的な考え方や感覚は、何百年から千年という時間の流れの中で、あらゆる人間の営みに影響を与えてきたし、これからも多様な変化をとげながら、はてしなく続いていく。