2010年7月29日木曜日

米倉誠一郎 組織も戦略も自分に従う!

ビジョン・キャリア・チャレンジ

2004 中央公論新社

1953年生まれ

今の日本は、多くの人々が、「一体、この先どうなるのか」という不安と閉塞感に悩まされている。
それでは、景気が回復して経済が成長すればいいかというとそういうわけでもない。
今の世界経済は、中国をはじめとする新興国の経済に引っ張られている。
こうした経済成長は、大量生産・大量消費型の生活と、自然との調和を無視した利便性追求によって達成された。
産業革命以来のエネルギー多消費型の成長がこのまま続けば、地球がもたなくなるのはわかっている。
今、求められているのは持続的成長(サスティナブル・グロース)である。
持続型成長とは、連続的に成長するという意味ではなく、資源枯渇や環境破壊を伴わないで「長続きする」という意味である。
著者によれば、いま、こうした方向へ向かって国民を動かしていく「ビジョン」が求められている。
かって、池田首相が示した「所得倍増計画」は、日本人全体の行動パターンを規定した「ビジョン」であった。このように、「ビジョン」とは、具体的に見えるものでなければならない。
そこで、著者は、次の三つの「ビジョン」を提言している。

①2010年までに、すべての公用車・準公用車を燃料電池車にする。
②2010年までに、すべての小中学校を太陽光発電利用とする。
③2010年までに、日本に道州制とサマータイムを導入する。

本書には、キャリア、チャレンジ、イノベーションという言葉が多く使われている。
これらはすべて個人の働きである。
個人が、しっかりとした意識と自分戦略を持っていなければ、経営戦略も組織も生まれない。
今の日本で、いちばん必要なのは強い個人である。
著者の提言する「ビジョン」も、画期的な太陽光発電や燃料電池が発明されれば、すばらしいものになるだろう。
そうした発明や発見も、すべて個人の働きにかかっているのかもしれない。

2010年7月26日月曜日

多摩川源流

7月25日、高校時代の友人と多摩川源流(水干)を訪れました














 
















水干からの眺め

2010年7月20日火曜日

2010年7月13日火曜日

前田英樹 独学の精神

1951年生まれ

2009 株式会社筑摩書房

「漢字が読めない、歴史を知らない、計算ができない・・・大学生の『基礎学力』のなさが言われて久しい。だが、『教育』に過剰なこの国の若者が『学力』を欠いているとは驚くべきことではないか。」(扉より)

今の若者に基礎学力が足りないというのは、本当だろうか。それでは、学校教育に問題があるのだろうか。
著者は、学ぶとは、この自分が学ぶのであり、生まれてから死ぬまで、身ひとつで生きる自分が学ぶのだという自覚がなければならないと言う。
この意味では、今はどうかわからないが、かってどこの小学校にでもあった二宮金次郎のセメント像は、象徴的である。今では、二宮金次郎のことを知る人も少なくなってしまったが、二宮金次郎は、学校とは無縁の人である。16歳の時に両親をなくし、伯父の家に引き取られたが、この伯父は金次郎に本を読むことなど許さなかった。それで、金次郎は、仕事の途中に歩きながら「大学」という本を読んでいた。

金次郎は、学校などには行かず、わずかな時間を惜しんで本を読んだ。
著者は、二宮金次郎のような生き方こそ、本当の学問に対する態度であると考える。
いまでは、大学の世界ランキングが発表され、論文の掲載件数などを競いあっている。子供の学力も、世界標準で第何位だとかいっている。著者は、こういうことは、人生のなかで、ほんとうに考え、学ぶこととは違うのではないかと言う。

考えてみれば、学校へ行けなかった二宮金次郎の像が、学校にあるというのも、おもしろい。

2010年7月4日日曜日

五木寛之・森一弘 神の発見

2005 株式会社平凡社

五木寛之 1932年生まれ

森一弘 カトリック司教 1938年生まれ

今から1400年ほど前、日本に伝えられた仏教は、日本文化の重要な一部になった。それにたいして、450年ほど前にフランシスコ・ザビエルによって伝えられたキリスト教は、その後、徹底的な弾圧を受けた。
明治になって、日本は、「和魂洋才」という合言葉のもとに、西洋の文明を受け入れた。しかし、「和魂洋才」には、大きなごまかしがあるのではないか、洋才には、本当は深いところで洋魂とでも呼ぶべき精神のありようがあって、洋才を支えているはずである。その根にあたる洋魂こそがキリスト教文化であると五木は考えている。
日本人のキリスト教にたいする感情には、幕府による弾圧とキリスト教徒の殉教の歴史があり、拒絶反応と、ある種の負い目とが混じり合ったものになっている。
いっぽう、日本に最初にキリスト教が入ってきたのと同じ頃、アメリカ大陸では、宣教師が兵士といっしょになって、原住民の文化や生活にたいする残虐な破壊活動を行っていた。今日のアメリカ大陸の国家や文化の姿は、その結果である。
故ヨハネパウロ二世は、そうした行為はカトリック教会の犯した大きな過ちであったと謝罪した。そのほか比較的最近になって教皇が謝罪したのは、十字軍、異端審問、自然科学への弾圧、ナチのユダヤ人弾圧に対する教会の態度などである。
五木は、過去の歴史の汚点をあきらかにして謝罪した教皇の態度を勇気のあることであるとたたえている。これを言い換えれば、いかにカトリック教会が世界の歴史に与えた影響が大きかったかということでもある。
五木によれば、明治以来の日本の近代化とは、天皇制と国家主義という和魂と洋才を無理やり重ねたものである。それが、敗戦によって否定されると、こんどは「無魂洋才」という抜け道を走り続けてきた。いま、さまざまなかたちで発生する事件は、無魂洋才という抜け道が行き止まりに直面したことを物語っているという。
もしそうだとすれば、和魂も捨ててしまった日本人は、これから先、どうしたらよいのか、大変な問題である。

ところで、明治時代に、日本が西洋文明を受け入れたとき、キリスト教もふたたびやって来た。当時の日本人は、西洋文明もキリスト教も同時に受け入れるのは、国も文化も失うことであるという危機感に襲われた。しかし、今では、西洋文明とキリスト教とは、かならずしも同一でないことが、明らかになりつつある。
森司教も、百年、二百年という目で見れば、日本という文化のなかで、独自のキリスト教会が育つものと確信している。