土屋政雄訳 2001 早川書房
訳者は、「イシグロは大家になったものだと思う」と書いている。
そのとおりで、カズオ・イシグロはノーベル文学賞を受賞した。
作家にとってノーベル賞を受賞するというのは、どういう意味があるのだろう。
川端康成は暗く淫靡な作品が多いから、あまりうれしくなかったのではないだろうか。
永井荷風は、文化勲章を受賞してから、浅草のストリップ劇場に通うこともできなくなり、天丼を食べて帰るだけになった。
村上春樹にノーベル賞をという期待もあるようだが、ファンを楽しませる作品を書くのには余計なことかもしれない。
小説は、情報の伝達手段としては、とりわけ冗長で曖昧である。
逆に言えば、一つの言葉や表現が様々な含意を持つところに、小説のおもしろさやだいご味があるような気もする。
この小説でも、「日の名残り」とは、夕方の日没時のことらしいが、それだけでなく、人生の老年と、そして、「大英帝国」の落日とに重ねあわされているという。
「しばらく前までこのベンチにすわり、私と奇妙な問答を交わしていったその男は、私に向かい、夕方こそ一日でいちばんいい時間だ、と断言したのです。たしかに、そう考えている人は多いのかもしれません。」
海上の空がようやく薄い赤色に変わったばかりで、日の光はまだ十分に残っており、桟橋の色付き電球が点燈する。そのとき、多くの群衆が集まって歓声をあげる。
そんな美しい夕暮れのような老年を迎えることは可能なのだろうか。
2017年11月27日月曜日
2017年9月30日土曜日
話のもと 宇野信夫
1981 中公文庫
ある時、蘭丸がみかんを積んだ台を持って、信長の前に出た。
信長は、「そんなに積んだらいまに倒れるぞよ」と言った。
その言葉のとおり、蘭丸はころんで、みかんを座敷に散らかしてしまった。
信長は「それ見い、余の言った通りだ」と、笑った。
その後、朋輩が「あの時は御前でしくじって気の毒だったな」と言うと、
蘭丸は「気の毒がるには及ばないよ。わざところんだんだ」と言った。
大岡越前守が、新参の下男にみかんを十個持参せよと言いつけた。
下男が盆にみかんをのせて持ってきたところ、越前守は、「十個持参しろと言ったのに、九個ではないか」と言った。
下男が十個持ってきましたと言うと、越前守は、持ってくる途中で一個食したであろうと責め、下役二人に言いつけて、下男を庭の木にしばりつけて、したたかに打った。下男は、たまらず、涙を流しながら「くったくったくった」。そこへ、越前が出てきて、袂から、みかんを一つ取り出して、下役に向かって、「拷問はよせよ」と言った。
ある時、町の酒場で若い者が喧嘩をはじめて手が付けられないので、ご隠居に仲裁を頼んだ。ご隠居がそこへ行ってみると、若者がわめき、荒れ狂っている。
ご隠居は男の手をつかみ、「馬鹿野郎、早く退散しろ」と怒鳴りつけた。
すると男はその威勢におそれたのか、急に猫の子のようになって、平伏した。
見ている者は、さすがご隠居だと、ことごとく感服した。
後になって聞くところによると、ご隠居は喧嘩を知らせに来たものにわけをきくと、僅かの金の貸し借りからはじまったことだという。そこで、金を持って行って、荒れ狂う男の手をつかむ時、そっとその手に金を握らせたので、男はすぐに屈服したのだという。
ある時、蘭丸がみかんを積んだ台を持って、信長の前に出た。
信長は、「そんなに積んだらいまに倒れるぞよ」と言った。
その言葉のとおり、蘭丸はころんで、みかんを座敷に散らかしてしまった。
信長は「それ見い、余の言った通りだ」と、笑った。
その後、朋輩が「あの時は御前でしくじって気の毒だったな」と言うと、
蘭丸は「気の毒がるには及ばないよ。わざところんだんだ」と言った。
大岡越前守が、新参の下男にみかんを十個持参せよと言いつけた。
下男が盆にみかんをのせて持ってきたところ、越前守は、「十個持参しろと言ったのに、九個ではないか」と言った。
下男が十個持ってきましたと言うと、越前守は、持ってくる途中で一個食したであろうと責め、下役二人に言いつけて、下男を庭の木にしばりつけて、したたかに打った。下男は、たまらず、涙を流しながら「くったくったくった」。そこへ、越前が出てきて、袂から、みかんを一つ取り出して、下役に向かって、「拷問はよせよ」と言った。
ある時、町の酒場で若い者が喧嘩をはじめて手が付けられないので、ご隠居に仲裁を頼んだ。ご隠居がそこへ行ってみると、若者がわめき、荒れ狂っている。
ご隠居は男の手をつかみ、「馬鹿野郎、早く退散しろ」と怒鳴りつけた。
すると男はその威勢におそれたのか、急に猫の子のようになって、平伏した。
見ている者は、さすがご隠居だと、ことごとく感服した。
後になって聞くところによると、ご隠居は喧嘩を知らせに来たものにわけをきくと、僅かの金の貸し借りからはじまったことだという。そこで、金を持って行って、荒れ狂う男の手をつかむ時、そっとその手に金を握らせたので、男はすぐに屈服したのだという。
2017年6月20日火曜日
「老い」の作法 渋谷昌三
2011 成美堂出版
無理をすることなく人生を楽しみ、自分にできることを積み重ねていく。それが、老いの作法である。
年を取ると、体力も衰え、弱っていくことはたしかである。
その一方では、経験を積み重ねて豊かになっていくという一面もある。
近頃では「熟年」という言葉があまり良い意味では使われないが、年々成熟していくということである。
それでも老化によって、能力が衰えていくことは認めざるを得ない。
そこで、老後をすごすためには、考え方を変えなければならない。
能力の衰えによって失われたものにこだわるのではなく、今できることから工夫して努力してみる。
そうしたことを通じて、失われたものを補っていくことによって、人生を豊かにしていく。
孔子は「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」と言ったという。
老後に能力が衰えても、それなりに何ができるか工夫することにより、人生を楽しみたいものである。
無理をすることなく人生を楽しみ、自分にできることを積み重ねていく。それが、老いの作法である。
年を取ると、体力も衰え、弱っていくことはたしかである。
その一方では、経験を積み重ねて豊かになっていくという一面もある。
近頃では「熟年」という言葉があまり良い意味では使われないが、年々成熟していくということである。
それでも老化によって、能力が衰えていくことは認めざるを得ない。
そこで、老後をすごすためには、考え方を変えなければならない。
能力の衰えによって失われたものにこだわるのではなく、今できることから工夫して努力してみる。
そうしたことを通じて、失われたものを補っていくことによって、人生を豊かにしていく。
孔子は「これを知る者はこれを好む者に如かず。これを好む者はこれを楽しむ者に如かず。」と言ったという。
老後に能力が衰えても、それなりに何ができるか工夫することにより、人生を楽しみたいものである。
2017年4月23日日曜日
山に生きる人々 宮本常一
2011 河出文庫
日本では、かなりの山奥へ行っても家があるが、そこにはどのような暮らしがあるのだろうか。
日本の歴史は古いとはいえ、まさか弥生人に追われた縄文人が山に逃げたとも考えられない。
ただ、山奥に暮らすには、何らかの理由があって平地に居られなくなった人たちもいたのである。
山で暮らす人のうちで、やはり多いのは、杣(木こり)である。すでに奈良時代には東大寺の大仏殿、諸国の国分寺に見られるように、巨大な材木が切り出されていた。
同様に鉄や銅のような鉱山を探す人たちも多かった。鉄は、天然に産出する砂鉄を川の水を利用して集め踏鞴(たたら)で熱するが、そのときに大量の木炭を必要とする。中国山中では、鉄山師と炭焼きが多かったという。
木を加工する仕事には、木地師(または木地屋)というのもあり、ろくろを用いて椀などを製造していた。
東北地方のこけしは、木地師が半端な材木を利用して作ったものである。
サンカの集団は、箕作り、竹細工などを業としていて各地の山野を放浪していた。
マタギという狩人は、イノシシ、シカ、クマなどの野生の動物をとっていた。
そのほか、高い山で焼き畑などの農業をしている部落では、平家の落人村という伝説を持っているところがある。
これらの山奥に住む人たちの間でも互いに行き来があった。海岸から塩を山へ運ぶ塩の道があり、山岳信仰の担い手である山伏は、かなり遠くから熊野や出羽まで歩いていた。
また、木地師は、すべて近江の蛭谷と君ヶ畑を根拠地としており、惟喬親王を精神的祖としている。
何にしろ、山での生活は、概してたいへん厳しくつらいものである。
そのため、昔も気候のいいときだけ山で暮らし、冬場は行商や労働をして平地で過ごす人が多かった。
近年は、若者は、ほどんど都会へ出て行ったので、今でも山に暮らしているのは、取り残された高齢者が多い。
ただ、今は日本中どこでも道路が整備されており、どんな遠くの農林水産物でも、一両日中には東京の店頭に並ぶような時代である。
もはや、日本に「秘境」は無いのであろう。
日本では、かなりの山奥へ行っても家があるが、そこにはどのような暮らしがあるのだろうか。
日本の歴史は古いとはいえ、まさか弥生人に追われた縄文人が山に逃げたとも考えられない。
ただ、山奥に暮らすには、何らかの理由があって平地に居られなくなった人たちもいたのである。
山で暮らす人のうちで、やはり多いのは、杣(木こり)である。すでに奈良時代には東大寺の大仏殿、諸国の国分寺に見られるように、巨大な材木が切り出されていた。
同様に鉄や銅のような鉱山を探す人たちも多かった。鉄は、天然に産出する砂鉄を川の水を利用して集め踏鞴(たたら)で熱するが、そのときに大量の木炭を必要とする。中国山中では、鉄山師と炭焼きが多かったという。
木を加工する仕事には、木地師(または木地屋)というのもあり、ろくろを用いて椀などを製造していた。
東北地方のこけしは、木地師が半端な材木を利用して作ったものである。
サンカの集団は、箕作り、竹細工などを業としていて各地の山野を放浪していた。
マタギという狩人は、イノシシ、シカ、クマなどの野生の動物をとっていた。
そのほか、高い山で焼き畑などの農業をしている部落では、平家の落人村という伝説を持っているところがある。
これらの山奥に住む人たちの間でも互いに行き来があった。海岸から塩を山へ運ぶ塩の道があり、山岳信仰の担い手である山伏は、かなり遠くから熊野や出羽まで歩いていた。
また、木地師は、すべて近江の蛭谷と君ヶ畑を根拠地としており、惟喬親王を精神的祖としている。
何にしろ、山での生活は、概してたいへん厳しくつらいものである。
そのため、昔も気候のいいときだけ山で暮らし、冬場は行商や労働をして平地で過ごす人が多かった。
近年は、若者は、ほどんど都会へ出て行ったので、今でも山に暮らしているのは、取り残された高齢者が多い。
ただ、今は日本中どこでも道路が整備されており、どんな遠くの農林水産物でも、一両日中には東京の店頭に並ぶような時代である。
もはや、日本に「秘境」は無いのであろう。
2017年3月8日水曜日
きまぐれ暦
1979 星新一 新潮文庫
著者は、数多くの短編を書いたが、製薬会社の御曹司で、自身でも会社を経営していたことがある。著者によると、かって江戸時代には医師は存在していたが、じつはほとんど役に立たなかったという。人体についての知識もなく、まともな薬も存在しなかったからである。それでは、西洋医学がすぐれていたかというと、解剖学だけは正確だったので日本人を驚かせたものの、効果のある薬などなにもなかった。
パスツールが細菌を発見したのは、やっと19世紀後半になってからである。
その後、ワクチンが発見され、いろいろな薬が製造されるようになったが、結核でさえ、つい最近まで不治の病に近かった。ハンセン病は、らい病と呼ばれて恐れられ、患者は隔離されていた。
今の世の中は薬が多すぎるので、私たちは薬のありがたみを忘れがちであるが、もし薬がなかったとしたら、たしかに大変なことである。
2017年2月26日日曜日
工学部ヒラノ教授
2011 今野浩 株式会社新潮社
大学も社会の縮図であるから、そこでは教授たちがドロドロとした権力闘争に明け暮れている。子供が少なくなれば大学の経営も苦しくなり、学部の看板を掛け替えたり、再編してみたり、大学院を新設したりする。国家の財政が逼迫しているので、大学の予算も削減され、そのぶん、文部科学省の役人のご機嫌を取ろうとして、天下りもよろこんで受け入れる。
このようななかで、大学教授という職業を考えてみると、けっして儲かる商売ではない。
大学教授になるには、大学を卒業してからさらに4年間も学ばねばならず、その後の下積み期間も長く、やっと40代の後半で大学教授になれたとしても、研究者としてのピークは過ぎていて、定年が間近に迫っている。
理工系の学部のばあい、実験器具を買ったり、海外に出張しようとすると、とても研究費だけではやっていけない。そのため、特別に文部科学省から補助金を出してもらおうとする。しかし、文部科学省の役人は、どれがすばらしい研究かなどわかるはずがないので、すでに実績のある研究に補助金が回ることになる。つまり、金のあるところへはますます金が回ってくるが、どんなにすばらしい研究であっても実績のないところへは金は回ってこない。冷遇されて恨みを残す人も多いことであろう。
大学教授は忙しいから、なかには学生の教育にあまりかまっていられない人もいて、学生など、タダで使える労働力としてしか見ていない。こまかい実験や統計作業をやらせたり、参考書の練習問題の解答を作らせたりしているのであろう。教育とか学生よりも、自分の生き残りを優先するとすれば、あり得ないことでもない。
以上、悪く書きすぎたが、大学も裏から見ればこういう面もあるのだろうと思う。それでも、社会における大学教授のステータスは高く、基本的に嫌な仕事はしなくてすむのだから、大学教授という職業は、やはり恵まれているのではなかろうか。
2017年2月13日月曜日
脳の呪縛を解く方法
2014 苫米地英人 株式会社KADOKAWA
ブラック企業で過労死する人が出ると、「辞めればよかったじゃないか」と思うが、そう簡単には辞められないし、逃げられない。
これは、おもに「脳の呪縛」のせいである。
人の脳は「誰かに見られている」と勝手に感じるように出来ている。
人の脳も、目や耳などの他の器官と同じように右脳と左脳とに分かれている。
意識とは、人が言葉を獲得してから急速に進化したものであり、左脳に言語をつかさどる領域があると言われている。著者によると右脳にもおなじような働きをするところがある。
言い換えれば、左脳にある意識は、右脳からの刺激を受けている。
誰かに見られていると感じるのはそのためである。
荒井由実は、「小さい頃は神様がいて」と歌ったが、誰でも似たような経験があるはずである。
その後、親に保護されて見守られ、学校に入ると先生が見守ってくれた。
社会に出ると、今度は会社が見守ってくれるのかというと、そうはいかない。
会社や、もっと広くとると、国家もそうであるが、それらは個人を監視し、束縛する。
しかし、かならずしも保護してくれるわけではない。そこらへんが監視され束縛されることに慣れている人には理解できず、逃げられなくなってしまうのである。
このような「脳の呪縛」を解くことによって、自由な自分を取り戻さなければ、今の日本のような生きづらい社会を生きていくことははできない。
昔も、武士は、主君に忠誠を誓って切腹したりしていたが、庶民は、「正直者はバカを見る」などと言っていたものである。
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