学んで、ときどきおさらいをする、そのたびに新しい発見がある。いかにも嬉しいことである。
だれか友達がいて、遠いところから訪ねてくるのも楽しいことである。
人がわかってくれなくても気にかけない、いかにも君子でなくてはできないことである。
友達は、なぜ遠くにいるのだろうか。近くにはいないのだろうか。
たしかに、近くにも友達はいるのだが、いつも会っていると、お互い対抗心が湧いてきて、自己主張しあう。ささいなことで、くやしがったり、くやしがられたりする。
嫉妬心は、相手が何々そうに見えるとか、かならずしも実態のないものを対象にするから、やっかいである。
そういうわけで、いつも会っていても、嬉しいばかりというわけでもない。
それでも、たまに会ったり、遠くから友達が来れば、やはり嬉しい。
「社会」とか「会社」という言葉は、明治になってから作られた造語であるという。
それ以前は、日本人には、「世間」しかなかったらしい。
「世間の風は冷たい」という言葉もある。世間、言い換えれば他人は、決して個人を認めようとはしない。
最近の話題で言えば、青色LEDでノーベル賞を受賞した中村さんは、会社が決して認めようとしないことへの怒りが、研究を続ける力になったという。
「STAP細胞」の小保方さんは、恵まれた環境のなかで甘やかされて育ったが、世間の目にさらされるといっせいに攻撃されてしまった。
認められないと言えば、老人または高齢者がある。少なくともいままでは認められていなかった存在である。
特に、定年退職後は、能力はあっても使うこともできないのだから、落差は大きい。
孔子でさえ、怒らないのは君子でなければできないことだねと言っているくらいである。
なかなか「悠々自適」というわけにもいかないらしい。